日本で生活していく上で、お金は必要不可欠なものだ。これが無ければ、ぶっちゃけ生きていけない。
浜田省吾とお金と言えば、メジャーな曲がすぐに思いつく。
そう、「MONEY」だ。
初めて「MONEY」を聴いたときは、それはもうブッたまげた。「いつか奴等の足もとにBIG MONEY 叩きつけてやる」とか「あのとき彼女はこう呻ぎ続ける 愛してる愛してる もっともっと」などと、いかにもキレまくった歌詞が続く。
挙句の果てに「俺は何も夢見ない 何もかもみんな爆破したい」と叫んで意味不明な絶叫をする。
浜田省吾に最初に接した曲がこの「MONEY」だったら、イカレたパンク野郎という印象を持ったかもしれない。
社会人になって、カラオケに行くと「MONEY」を唄うビジネスマンが多いことも驚いた。浜田省吾をほとんど知らない人が、「MONEY」だけは知っていて気持ちよさそうに絶叫している。
「マネーーーー!!」とシャウトするのが爽快なんだろう。
しかし、これを日本語に直訳すれば「カネーー金ーー」と叫んでいることになる。そういう姿を連想すると、ちょっと気恥ずかしくならないだろうか?
どうも日本人はお金に執着する様子を否定的にとらえるところがある。日本語で「カネ、ゼニ」と叫ぶのはカッコ悪いが、「マネー」なら許されるようだ。
この曲の歌詞をよく読めば、お金で何でも買えるわけでもないし、稼ぐことばかり追い求めていると人生が狂ってしまうという警鐘だと理解できる。
「欲しいものは全てブラウン管の中 まるで悪夢のように」という歌詞が、テレビで煽られる欲望は、決して尽きることがないと暗示している。(テレビも時代とともに変化して、“ブラウン管”は死語になりつつある。歌詞が“スクリーン”とかに置き換わる時も来そうだ。)
そして何より残酷な事実は、「純白のメルデウス プール付きのマンション」はいくら猛烈に働いても、ほとんどの人には手が届かないという現実だろう。
それゆえに、酔っ払ったビジネスマンは「マネー」と絶叫するのだ。
それでは下世話な話になるが、この歌を1984年に発表した浜田省吾自身の懐具合はどうなのであろうか?
長者番付の歌手部門をチェックすると、1988年に初めてベスト10入りし、1990年から1992年までは3年連続でベスト10入りしている。
どうやらBIG MONEYは手に出来たようだ。羨ましい限りだ。
そして、株式投資に失敗したとか会社をコケさせたという噂も聞かない。矢沢永吉のように詐欺・横領事件に巻き込まれて35億円の借金を背負うなんてこともない。(矢沢永吉はその借金を6年で完済したという。そのパワーは凄まじい。)
そんなマイナスの話題が上らないということは、堅実な運用をしているのだろう。
誰もが欲しがるお金ではあるが、交換価値が無ければ単なる紙切れになってしまう。その紙切れ自体には何の価値も無い。
貨幣は全国どこでも通用するという信頼感があって、初めてその威力を発揮する。
最近では、アタッシュケースに札束を詰め込んで商談をするのは現金問屋くらいだ。ほとんどの大口取引は銀行間のオンラインを通じて、無視質なデジタル符号を交信することで完結してしまう。
遠山のような零細事業でも、クライアントからはネットバンキングの振込だから、入金処理の際に札を手にすることは無い。
そんなあやふやな預金残高の数字を信用してモノが動いているわけだ。それでは、その信用というのは誰が保証しているかというと、国家ということになる。
この肝心要の日本国が、国際的に信用を失墜する失態を犯せば、何億と預金があろうとその数字には何の価値もなくなってしまう。
絶対に潰れることは無いと言われた都市銀行や4大証券の一角が破綻することもあるのだ。通貨の信用不安が起きないという確証は無い。
そう考えると、生き抜いていく上で本当に必要なのは“信用”ということになるのではないか。貨幣経済も通貨に対する絶対の信頼感を前提としている。
世の中はお金中心に回っているように見えて、実は本当のところ経済の根幹は信用に尽きるのだ。
日本経済への信用、会社の信用、個人の信用。これらは密接に絡んでいる。そして、より多くの人から信頼される事業や個人にお金は集まるようにできている。
逆にいうと「金儲けが第一」というオーラを発する人のところには、不思議と人は集まらない。人を集める集客力が無ければ、お金も集まらない。金儲けを自己目的化してはいけないということだ。
人のために役立ち、社会に貢献できる事業こそ、長く愛され支持されるものと言えよう。浜田省吾もファンの心をつかんだからこそ、相応の経済的対価を得ることができたのだ。
投稿者 : 2006年04月12日 02:21 [ 管理人編集 ]