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ビジネスと分業

 

浜田省吾のライブでは、休憩時間にもサービス心が旺盛だ。ライブの中間で10分程度の休憩があるのだが、この時間に観客が退屈しないようにステージ上のスクリーンにはオリジナル映像を流してくれる。

 その映像はショートストーリーになっていて、浜田省吾が主演するというレアものだ。これを見逃すのはもったいないと思い、ついついトイレに行きそびれたファンも多いだろう。

 ON THE ROAD 2001ツアーでは、「ミッドナイト・キャブ」と「マリア」というタイトルのショートストーリーを披露した。

 「ミッドナイト・キャブ」は浜田省吾が扮するニューヨークのタクシー運転手に、様々な乗客がその人生模様を語りかける。無邪気な不良少年たちの武勇伝、娼婦風の女性が恋人に客の暴行を嘆く、東洋人(日本人?)が株の暴落に断末魔の悲鳴をあげる、寡黙な老紳士が大切な人の死を語る。このように乗客の人生観を、寡黙な運転手の浜田省吾がただ頷いて聞いている場面が印象的だった。

 「マリア」は大農場でメキシコ人労働者が農作業をする様子が映されていたが、その中に浜田省吾が混ざって農夫役をしているのを見つけると、会場から笑いが起こった。やはり農作業中でもサングラスは外さないのだ。
 そんな農作業後の歓談の際に、浜田農夫と地元の美少女のマリアが世界観や職業観を型ってしみじみと聞かせる。

 この「ミッドナイト・キャブ」も「マリア」もテーマは「働く」ということだそうだ。そういえば浜田省吾の曲には「ビジネス」や「仕事」について触れる歌詞が多い。ロックにしろR&Bにしろ、流行歌のテーマはほとんどが「恋愛」というのが主流だが、そういう面でも異色といえるだろう。
 もちろん、浜田省吾もラブソングはたくさん作っているし、その評価も高い。でも、人間は四六時中恋愛だけを考えて生きているわけではない。働き盛りのビジネスマンが音楽CDを買わない現象というのは、案外恋愛漬けの流行歌に食傷気味になっている事情もあるのではないか。もう学生ではないんだし、愛だ恋だと浮かれている気分じゃないっていうのも本音だろう。

 遠山自身の感性が人と違っているところがあるのかもしれないが、はるか昔の高校生の頃からラブソングしか入っていないアルバムに違和感を持っていた。いいラブソングは確かに好きだが、歌の全てが恋愛一色だと「あんたの頭の中は恋愛しかないのか?」と毒づいていたものだ。何か無理に恋愛を強制する“恋愛押し売りソング”が氾濫しているようで、流行歌を聴きたいとは思えなくなっていった。

 そんな偏屈な少年時代を過ごしていたが、大学に入学した年に浜田省吾のアルバム「J.BOY」を聴いて衝撃が走った。
 何とアルバムの1曲目から「A NEWSTYLE WAR」なんていう反戦歌が入っている。「J.BOY」では過労死が社会問題になる中で、仕事におぼれるビジネスマンの心境を吐露している。その他にも父親の人生観やアルバイトで苦学する歌など、生活に密着して共感を得る曲が多かった。
 ラブソングも「19のままさ」や「遠くへ」などは、将来の不安を抱えて吹けば飛ぶような存在の自分の境遇に一致した。
 その時以来、浜田省吾が「通りのウィンドーに飾ってあったギターを見たとき」並みの稲妻が体を駆け抜けて、彼がリリースする曲は必ずチェックするようになった。

 そんな浜田省吾が「仕事」について語った記事がある。

「 仕事っていうのは、ただ、お金をもらって生活するためだけのものだったら、どこか寂しい気がするんですね。人は社会的な生き物ですから、仕事をすることによって、社会の中のつながりとか誰か人のためになっているとか、そういう存在価値みたいなものを見出せたらすごく幸せだと思うんです。」(日経エンタテイメント 1999年12月号より)

 納得である。現代社会は物の生産や流通が高度化して、仕事の内容が分業化・細分化されている。
 例えば、工場の中で精密回路のハンダ付けの作業を任された場合、それ以外の仕事が見えないわけだから、自分のやっていることが社会のどこで役に立っているか認識できない。
そこで「お客様のために貢献しろ」とか「仕事に誇りを持て」と言われても、それは虚しいスローガンとして耳の左から右へ抜けていくだけだろう。

 逆に消費の場面でも同様だ。今晩の夕食の刺身について、その生産や流通過程に携わる人々の苦労にどれだけ意識はいくのだろうか。
 魚が切り身になるまでは、養殖業者の手で何ヶ月も世話をされた魚が水揚げされ、鮮度が落ちないうちにトラックで運ばれ、加工センターで切り身にされる。その後、店頭に並ぶわけだ。その間では熾烈な価格交渉があって、そこでストレスを抱える人もいるはずだ。
笑い話で、小学生に魚の絵を描かせると、切り身が泳いでいる絵を描いたという話がある。それほどまでに現代人は、かつては自らの手で行っていた工程の一部しか見ることができず近眼になっている。

 そんな断片的な日常を繰り返していると、自分が社会の中でどのような役割を担っているかを感じ取るのが難しくなる。
浜田省吾も語るように、社会とのつながりを認識しないことには、人間は孤独や疎外感から開放されることはない。面倒に思える作業になるかもしれないが、自分のやっている仕事が何の役に立っているのかを調べ、その全工程や全体像を把握する努力を行い、それを家族と語って確認することが幸せにつながるのかもしれない。

投稿者 : 2006年04月12日 02:30 [ 管理人編集 ]