« 浜田省吾と鬱病 | 理念を示すカリスマ »

平和と格差社会

 浜田省吾といえば、数多くのラブ・ソングもリリースしているが、メッセージ性の強い歌を作るシンガーという印象も強いと思う。実際に、戦争や平和をテーマにした曲は多い。

 そうしたメッセージ性のルーツを、過去の学生運動にあるのではと邪推するファンもいるが、浜田省吾自身はそれを否定している。
 確かに学園紛争が盛んな頃の神奈川大学に籍を置いていたことは事実だが、ストによって講義が行われなかったり、学生の派閥抗争によって荒廃する大学に嫌気が差し、1年半で退学している。

 浜田省吾は平和に対する思い入れの原体験として、広島生まれであることを挙げている。それは小学生の時に原爆資料館を見学したときの衝撃であったり、被災者救助に駆けつけて二次被爆をした浜田の父親の体験談を聞いて、戦争は嫌だと強く思うようになったことであったりする。

 そうした思いが底流にあり、反戦や平和をアピールする歌詞を多く書いている。そうした曲からは、その鋭い洞察力に圧倒されるばかりだ。

 1986年に発売されたアルバム「J.BOY」に収録された「NEW STYLE WAR」では、「地下から地下へ運ばれたBOMB(爆弾) 国家に養われたテロリスト」と風刺をしている。
 また、同時期のインタビューでは、「日本は平和だし、世界も今は、ほら、ソ連とアメリカも一時の緊張感ってなくなってきてるでしょう?だけど、これからの戦場っていうのは国境で区切られている戦場ではなくてね、いきなり東京の丸ノ内のビルが爆破される戦場かもしれないし、病原菌や自然破壊やそういったことが新しい戦場になるわけで、ある意味では今まで以上に平和な時代ではないんじゃないかなって。」(「青空のゆくえ」ロッキングオン)と答えている。

 ちなみに、猛毒サリンを使ったオウム真理教の無差別テロである地下鉄サリン事件は1995年。アメリカの世界貿易センタービルやペンタゴンに対する同時多発テロ(9.11事件)は2001年に発生している。
 このような陰湿で無残なテロの可能性を、浜田省吾は1986年の段階で予見していたともいえよう。
 このような普遍性・予見性を持つ歌を作り出す才能には、本当に驚愕してしまう。

 この「NEW STYLE WAR」では、このような新しい紛争の原因は「飽食の北を支えている 飢えた南の痩せた土地 払うべき代償は高く」と分析している。
 つまり、豊かさや富の偏在が、一方で圧倒的な貧困層を生み出し、その矛盾がテロを誘発するという解釈ができる。

 翻って、現在の日本では格差社会の是非が問われている。

 ヒルズ族に代表される億万長者と、生涯を企業勤めで終える一般のビジネスマンとの間には、実に大きな経済格差が生まれている。まして、就労の意欲すら持てないニートに至っては、比較にすらならない。

 もちろん、日本は資本主義社会だから、たくさん働いて多く稼いだ者が笑うのは当然だ。そのことに異を唱える人はいないだろう。

 しかし、それは自由競争の原理が正常に機能することが前提となる。平等の条件の下で競争を行って、その結果より多くの努力をして汗を掻いた者が報われる経済システムであれば、誰も文句は言わない。

 だが、競争のスタートラインが平等ではなく、既に経済力を持つものが優遇されるならば、建前の競争など意味はなさない。
 例えば、官公庁のコンピューター・システムの入札でも、仕様書を厳密に指定すれば、実質的に対応できる業者は限定されてしまう。その仕様書策定の過程が不透明であれば、競争は機能しない。
 巧妙な細工で、富を持たざるものを排除することは可能なのだ。

 現在、ニートが急増しているのも、競争による上昇志向をイメージし難く、社会の閉塞状況を敏感に感じ取っているからではないだろうか。

 日本は少子高齢化社会を迎えるのに、働き手である世代にニートが増えているのは、日本経済にとってマイナスである。本来なら貴重な若手の労働力として期待したいのに、その層を親や国家が扶養しなくてはいけないのでは、本末転倒だろう。
 これは個別の企業や職場においても同様であろう。勤労意欲に乏しい若者を一方的に責めるのではなく、どのようにして彼らの意欲を引き出すのかが問われている。

 そのためには、前提条件の整備が必要だ。つまり、平和・平等をモットーとして、公正な競争を図り、努力した者が報われることを明らかにすることだ。
 そんな単純なスタート・ラインの整備ができない職場も多いのではないだろうか?

投稿者 : 2006年04月12日 03:28 [ 管理人編集 ]